(過去に耽るのは連日の疲れが溜まっているのかもしれないな……)

内心で自嘲しながら廊下を進めば、不意に、微かに琴の音が耳に届いた。

視線を巡らせど弾いている主の姿はないが、音が出る方は大体分かる。

僅かに聞こえてくる端々でも奏者の手腕は窺え、嫌がられる事は覚悟で音が鳴る方へ足を向けた。

「妖琴師、か」

かくして、白い着物に身を包んだ彼はいた。樹皮が所々剝げてしまった桜の巨木の根元に座り込み、目を閉じて琴を弾いている姿こそ音の正体だろう。姿が見えるギリギリの位置で足を止め、なるべく呼吸さえ殺してその音に耳を傾ける。静寂を好む彼の鬼は少しの邪念も許さず、興が逸れて失うにはこの音は惜しい。相手は私が来ている事には気づいているだろうが、弾き手を止めない。まだ、許されている距離である。

人を狂わせる音の持ち主である妖琴師が来たのはついこないだの事だ。

都の探索で鬼退治に勤しんでいれば、突如として現れた荷を背負った紙人形が落としていった霊符で偶然呼べたのが彼だった。呼んだすぐに「煩いぞ」と言われ、話す間もなく「このような喧しい場所に呼ぶなど…」と不満を言われて去ってしまい、私自身も依頼でてんてこ舞いになっていたのでこうして姿を見るのも久しぶりだった。一度偶然見かけた時には、近寄った小白と神楽が純粋に賛辞を呈していた姿もあったが、煩わしそうに眉を潜めていた所を見るに相当気難しいのだろう。

余韻を残して、一曲が去る。

本来ならばすぐに立ち去った方が良いのかもしれないが、この浮世離れした想いをすぐに手放すのは惜しい。目を閉じて、そっと浸っていればいつの間にそこにいたのだろうか。目を開ければ白い着物が目に入り、私は僅かに目を見開く。

「いつまでそうしているつもりだ」

低い声音で問われ、暫くしたのちに口を開く。

「なに、あまりに見事なものだったのでな」

「ほう。君にあの調べが理解出来たとでも?」

挑発的な台詞は地なのか、それともハッタリか。私は目を細め、持っていた扇子で手を叩いた。

「人を狂わすというその噂、確かに納得せざる得なかった」

純粋に賛辞を込めて言うが、気難しい彼はスッと冷めた目つきで私を見やる。興ざめしたと言わんばかりの表情で私を見下ろす。

「やはり、到底出来ていない。所詮はその程度というものか」

言うや否や、彼は重たい琴を物ともせず踵を返し、これ以上はないと暗に告げている。

「心労が募った心で私の調べが理解できると?」

「なるほど。それは失礼な事を言った。では、明日は純粋にその音を楽しむ為にここに来よう」

「ふん。口先だけで出来るとは到底思えないがな」

どうやら気休めに聴いていたのが気に障ったらしい。音律の道を極めた者にとって、何かを紛らわせるために聴かれたのであっては無粋にしかならないのだろう。失礼を詫びるように彼が立ち去るまでその場でじっとしていれば、彼は一切こちらに振り返る事もなく立ち去って行った。

次の夜はいるかどうかも分からない妖琴師の琴の音を聴く為だけに桜の巨木の元へ訪れた。約束も交わしていなければ、気難しい彼なので来るどうかもわからない。期待半分に訪れた場所に、かくして妖琴師はいた。前の夜と同じ位置に座し、私も昨日と同じ位置に佇む。息を殺して、世界が妖琴師の奏でる音だけになったかのような錯覚に囚われ、目も眩むような時間に浸る。その時だけは何もかもを忘れて、じっと彼の音だけに身を任せた。そうして余韻に浸っていればいつの間にか妖琴師の姿はなく、私は誰もいない桜の木に向かって「お見事」と笑みを向ける。

そんな夜が連日続き、最近はあれほど感じていた疲れも感じなくなっていた。

相変わらず蔓延る悪鬼が絶える事はないが、夜にあの音を聴くだけでその日にあった出来事がぼんやりとどうでも良くなってしまうのだ。たとえ、その日の依頼がどのようにキツいものであったとしても、妖琴師の琴を聴けば彼の音しか頭に入って来なくなる。